東京地方裁判所 昭和33年(行)96号 判決 1960年9月28日
原告 松下今朝敏
被告 国
訴訟代理人 朝山崇
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
当裁判所が昭和三四年六月三〇日本件につきした昭和三三年(行モ)第一八号執行停止決定はこれを取り消す。
事実
(原告の申立及び主張)
第一、原告の申立
一、原告が、被告から、長野地方裁判所松本支部が原告に対し昭和二五年三月三一日言渡し、昭和三三年五月二四日確定した「被告人松下今朝敏を死刑に処する」旨の判決の執行を現行の方法をもつて執行される義務を負わないことを確認する。
二、訴訟費用は被告の負担とする。
との判決を求める。
第二、原告の主張
一、原告は、強盗殺人罪により昭和二五年三月三一日長野地方裁判所松本支部において「被告人松下今朝敏を死刑に処する。」旨の判決を言渡を受け、同判決は控訴、上告及び判決訂正の申立等を経て昭和三三年五月二四日確定したので原告は被告から同判決の執行を受ける立場にある。
二、ところが、被告が原告に対し行おうとしている死刑の執行は現行の執行方法による限りそれは憲法ならびに法律に違反するものである。
(一) 先ず、死刑に処する旨の裁判を行うこと自体はともかくとして、現在これを執行することは憲法違反である。すなわち、憲法三一条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と定める。そして、右にいう「法律の定める手続」とは、国家が刑罰を内容とする判決を言渡すまでの実体規定及び手続規定のみならず、現実にその刑罰を実現する執行の方法に関する手続規定をも包含することは明らかである。死刑の執行方法について現在わが国において右憲法でいうところの「法律の定める手続」というに価する定めが存在するか否かをみるに、この点に関しては刑法一一条「死刑は監獄内に於て絞首して之を執行す」刑事訴訟法四七五条「死刑の執行は法務大臣の命令による。」同四七七条「死刑は検察官………立会の上之を執行しなければならない。」監獄法七一条「死刑の執行は監獄内の刑場に於て之を為す。」同七二条「死刑を執行するときは、絞首の後死相を検し仍ほ五分時を経るに非されば絞縄を解くことを得ず。」等の規定が存するが、これらは「絞首、刑場、絞縄」の点のみを示すに止まり死刑の執行方法についての具体的な内容を規定するものではない。人の生命を奪うことは最も重大なことであるから、その執行方法についても具体的な法律の規定がなければ、右憲法のいう「法律の定める手続」があつたとはいえない。してみれば、現在わが国においては、死刑の執行手続を規定した法律がないのにかかわらず、被告が原告に対し現在死刑を執行しようとしていることは、法律の定める手続によらずして生命を奪おうとするものであつて、明らかに右憲法三一条に違反している。
(二) もつとも、死刑の執行方法に関しては、前記諸法条の外明治六年二月二〇日太政官布告六五号がこれを規定し、同布告の定めは具体的であるけれども、この布告は現行の法律ではない。すなわち同布告は本来法律をもつて規定すべき事項を規定する命令であつたが、日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律(昭和二二年法律第七二号第一条の四によつて当然法律に改められたものとされるべきもののうちに掲記されないから、昭和二二年一二月三一日の経過によつてすでに失効しているのである。
(三) 仮に、右太政官布告が現在なお有効で、法律と同一の効力を有するものとしても、現在わが国で行われており被告もそれに準拠しようとしている死刑の執行方法はこれと異なるものである。すなわち、右太政官布告は死刑の執行方法としていわゆる屋上絞架式を採用しているのに、現行実際の執行方法は地下絞架式を採用しているのであつて、その間なんら適法な法改正手続はない。従つて現行の執行方法が違法なものであることは明らかである。
(四) 仮に右が理由がないとしても、現行の死刑執行方法は刑法に違反する違法の方法である。すなわち、刑法一一条一項は「死刑ハ………絞首シテ之ヲ執行ス」と規定しており右「絞首」とは、頸のまわりに索条をかけ自己の体重によらずしてこれを引き締めて窒息死に至らしめるものであるのに対し、現行の死刑執行方法は、頸のまわりにかけた索条を受刑者の体重をもつて引き締めて窒息死に至らしめるもの、すなわち「縊首」の方法を執つているからである。
三、かように法律に定めた手続によらずして死刑を執行することは憲法違反であつて、国といえども許されないところであり、原告はかような執行方法によつて執行される法律上の義務はないのであるから、ここにかような義務不存在の確認を求める。
四、被告は、刑の執行方法に対する不服の申立は刑事訴訟法所定の方法によつてのみ行うべきであると主張するが、死刑の執行に関する検察官の執行指揮処分が受刑者に告知されるのは死刑執行の直前であるから、当該受刑者はこれに対する異議申立のいとまがなく、したがつて、死刑の執行方法に対して不服がある場合にはあらかじめ本件のような行政訴訟の方法による外はないから、本訴は適法である。
(本案前の被告の抗弁)
被告は、「本件訴を却下する」との判決を求め、その理由として、「およそ刑の執行方法に対して不服のある者は、その救済方法を、刑罰権実現に関する刑事訴訟法上の救済手続に求めるべきであり、本件の場合も同法五〇二条の異議申立の方法によるべきであつて、これを民事ないし行政訴訟制度に求めることは許されないから、本件訴は不適法である」と述べた。
(本案についての被告の答弁)
被告は、「原告の請求を棄却する」との判決を求め、答弁として次のとおり述べた。
一、原告主張一の事実は認める。
二、同二及び三の主張は争う。
(一) 憲法三一条にいう「法律の定める手続」のうちに、刑罰権実現に関する実体規定のみならず、その手続規定をも含むことは争わないが、現在わが国において死刑の執行方法に関し右憲法でいうに価する手続規定が存しないという主張は争う。そもそも刑の執行方法について法律をもつて規定すべき事項は、その基本的な重要な事項に限られるのであつて、刑の執行に関しそのあらゆる細目の事項にわたるまで法律をもつて規定することは憲法の要請するところではない。しかして、現在わが国においては、死刑の執行方法につき原告も指摘するような刑法、刑事訴訟法、監獄法の規定があり、これらをもつて死刑の執行方法に関し「法律の定める手続」の要請は充分であるから、現在のわが国において死刑を執行することが憲法に違反するということはない。
すなわちこれらにより死刑の執行方法は斬殺、銃殺、電気殺等他の方法と区別される特定の方法をもつてすること、その執行の命令権者、命令及び執行の時期、執行の場所、執行停止事由等の大綱は定められているのであつて、刑の執行に関する基本的重要事項は尽されている。それ以上にその執行にさいし用いられる刑具の構造ないし用法、被執行者の取扱方法等に関するものは細目的具体的方法であつて執行者の執務上の準則にすぎず、法律をもつて定めることを要するものではない。
これを要するに憲法は、死刑が生命剥奪に関するものであるからといつてその具体的執行方法のすべてを重要事項とするのではなく、その執行を執行者の恣意や残虐行為から保証するための所要事項を法律で規定すれば足り、その余は執行者、指揮者の公正な職務執行に期待すればよいとの立場をとつているのである。
(二) 原告の指摘する太政官布告六五号は死刑執行の方法に関し詳細な規定を置いているが、もともとこのように詳細な事項は法律をもつて定むべき事項ではないから、右布告の本質は命令に属するものであり、したがつて、同布告は前記昭和二二年法律第七二号には関係なく、法務省令としてその後法律をもつて改められた絞縄解除の時間の点を除き現在なお有効に存続するものである。
(三) 現行の死刑執行方法が、右太政官布告に定める屋上絞架式によらず、地下絞架式によつていることは、原告指摘のとおりである。しかし、すでに述べたように、太政官布告六五号は、いわゆる法律事項を定めた法律の性質を有するものではなく、単に刑執行の準則を定めた省令の性質を有するものにすぎないから、仮りにこれに違反したとしても違法の問題を生ずる余地はない。のみならず現行の執行方法は布告六五号に違反するものともいい得ないのである。布告の図解は地上に絞架器具を設置した、いわゆる屋上絞架式を示しているが、現行の執行方法はたんにその絞架器具を地下を堀割つて設置したにすぎない、いわゆる地下絞架式であつて、受刑者が階段を上るか、平地を歩むかの差異を除いてはその基本的機構、方法において変るところはないむしろ受刑者の苦痛をより和らげ且つ刑執行の密行主義への推移にもかなうものであつて、いつそう合理的である。
(四) 刑法一一条一項が「死刑ハ………絞首シテ之ヲ執行ス」と規定していることはそのとおりであるけれども、右にいう「絞首」とは、法医学上の厳密な意味での絞首ではなく要するに受刑者の頸部を緊縛抑圧することによつてこれを窒息死に至らしめることを意味するものと解すべきであるから、受刑者の体重が加わるか否かにかかわらず、頸部に絞縄をめぐらし、これを引き緊めることによつて受刑者を窒息死に至らしめる現行の死刑執行方法は右刑法にいう「絞首の方法に該るものである。これを沿革的にみても死刑執行方法としての「絞」は新律綱領(明治三年布告第九四四号)、改定律例(明治六年布告第二〇六号同年六月一三日制定、七月一〇日施行)及び旧刑法(明治一三年布告第三六号同年七月一七日制定明治一五年一月一日施行)を経て現行刑法に承継されているのであるが、明治六年太政官布告第六五号(同年二月二〇日制定、即日施行)が従来の絞柱式執行方法を改めて絞架式執行方法としたのであつて、その後に制定施行された改定律例は右布告六五号の執行方法を前提としてこれを「絞」の内容としているのであり、爾来旧刑法を経て現行刑法にいたるまでその執行方法に変更がないのであるから、刑法にいう「絞首」は改定律例にいう「絞」と同一であり、従つて現行の執行方法がそれであることは明らかである。
(立証省略)
理由
一、先ず、被告の本案前の抗弁について判断する。刑事訴訟法の手続によつて裁判を受けその執行を受ける者が、右執行に関し検察官のした処分を不当とするときは、刑事訴訟法五〇二条により当該裁判を言い渡した裁判所に対し異議の申立をすることができることそして通常は刑事裁判の執行に関する不服申立の方法は右の方法によるべきことは、被告所論のとおりであり、これによりその救済が期待される限り、他の方法を許されないとしてもかくべつの不合理はない。しかし、右の方法によつては不当な執行処分からの救済が実質的に果されないような特別の場合には、制度として右のような方法があるとの一事によつては他の方法によつてこれが救済を求めることを拒み得ないものと解するのが相当である。これを本件についてみると、およそ死刑の執行については検察官がした指揮の結果、すでにその執行がなされた後においては全く不服申立の余地がないことはみやすい道理であるのみでなく、指揮の後、執行の前なる機会を観念し得るとしても、現行の法令ならびに当裁判所の検証の結果によれば、死刑の執行にあたつては、他の刑の執行の場合とはいちじるしく異なるものがあることが明らかである。すなわち死刑は法務大臣の命令によつて執行するが、その命令のあつたときは五日以内に執行しなければならないところ、これを指揮する検察官の死刑執行指揮処分は、執行を行う日の前日はじめて当該刑務所長に内示され、それが正式に所長に伝えられるのは当日の朝になつてからであり、そして当該受刑者が刑務所長から右執行指揮のあつたことを申し渡されるのは右の直後、そして死刑の執行直前、ひとり導き入れられた刑場内の仏間においてである。このような時点、このような状況において右指揮処分に対する異議がはたして十分に行われ得るであろうか、何人もよくこれを保証し得ないといわなければならない。そうであつてみれば、死刑を言い渡された者の右死刑の執行に関する不服の申立方法を、上記刑事訴訟法五〇二条の異議申立の方法のみに限ることの甚だ妥当を欠くことは明らかであるというべく、右受刑者はあらかじめ死刑の執行について他の方法の存するかぎり、その方法によつて裁判所に対し実質的に異議を主張して救済を求め得るものと解すべきである。そして、このように、重大な法益につき、他に十分な救済方法がなく、止むを得ない場合には、死刑受執行義務というような公法上の義務につきその不存在を主張し、その義務不存在確認の訴を提起することもまた許されるものと解するのを相当とする。したがつて、本件訴は適法であつて、被告の主張は理由がない。
二、よつて本案について判断する。原告主張一の事実(原告を死刑に処する旨の判決があり、確定したこと)は、当事者間に争がない。
三、原告は、先ず第一に現在わが国においては死刑の執行について「法律の定める手続」を欠くかから、現在死刑を執行することは憲法三一条に違反するという。そこで、現在わが国における死刑執行に関する法律の定めをみるに、刑法一一条一項は「死刑ハ監獄内ニ於テ絞首シテ之ヲ執行ス」と定め、刑事訴訟法四七五条一項は「死刑の執行は、法務大臣の命令による」、同条二項本文は「前項の命令は、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならない」、同四七六条は「法務大臣が死刑の執行を命じたときは、五日以内にその執行をしなければならない」同四七二条一項本文は「裁判の執行は、ヽヽヽ検察官がこれを指揮する」、同四七七条一項は「死刑は、検察官、検察事務官及び監獄の長ヽヽヽの立会の上、これを執行しなければならない」と定め、また、監獄法七一条一項は「死刑ノ執行ハ監獄内ノ刑場ニ於テ之ヲ為ス同七二条は「死刑ヲ執行スルトキハ絞首ノ後死相ヲ検シ仍ホ五分時ヲ経ルニ非サレハ絞縄ヲ解クコトヲ得ス」と定め、そして刑事訴訟法四七八条は「死刑の執行に立ち会つた検察事務官は、執行始末書を作り、検察官及び監獄の長ヽヽヽとともに、これに署名押印しなければならない」と定めているのである(死刑の執行手続についてはこのほかになお刑事訴訟法に定めるところがあるが省略する)。そこで問題は、右の諸規定が死刑の執行手続に関し果して憲法三一条にいう「法律の定める手続」というに価するか否かである。思うに憲法三一条が「何人も法律の定める手続によらなければその生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」としたのは、死刑を含めてすべて刑罰を科するには法律の定める手続によるべきことを規定しているのであつて、それはたんに刑罰を科することを内容とする裁判を言渡すまでの手続が法律によるべきものであることに止まらず、その刑罰の実現すなわち裁判の執行の内容もまた法律の定めるところによるべきであるとしているものと解すべきは異論のないところであるが、この場合刑罰の執行を法律によるべきこととしているのは、いつたん法律の定める手続により一定の刑罰を科することとなつたとしても、およそ刑罰の実行は直接人の生命、自由、財産等を害する重要な事項であるが故に、これを執行者の恣意にまかせず、必要最少限度に止め、かつそれが残虐な方法におちいることのないよう担保するにあるものというべきである。従つて法律においてこれらの諸点が確保されている限り、右憲法の要請をみたすものというべきであつて、それ以上にその執行の具体的な細目までことごとく法律によるべきものとするのではないと解するのが相当である。死刑は人の生命を奪うものであつてそれ自体きわめて重要な事がらであり、刑罰の中でももつとも重大なものであることは明らかであるが、それだからといつてとくに右と異なる解釈をすべきものではない。この見地から前記法律の諸規定をみるに、そこにおいては、死刑の執行の命令権者及び執行指揮者、執行の時期、場所及び立会人、執行の方法及びこれが記録(執行始末書の作成)等が法律で定められ、とくに執行の中心をなす執行の方法すなわち生命はく奪の手段についてはそれが「絞首」であつてその内容が何であるかは後に見るとおりであるとしても、少くともそれが斬殺、銃殺その他の手段と区別されるものであるゆえんが規定されていること明らかであり、これによれば前記の諸点はこれを担保するに足りるものということができる。したがつて、この点においては現在わが国において死刑の執行方法に関し憲法三一条にいう「法律の定める手続」は存在するものといい得るから、これのないことを前提とする原告の所論は理由がない。
四、次に、原告は、明治六年太政官布告六五号は死刑の執行方法について具体的に規定するが現在効力ある法律でないのみでなく、現行の死刑執行方法は地下絞架式であつて、上記太政官布告六五号の定める屋上絞架式に反するから違法であるという。右太政官布告が死刑の執行方法につきいわゆる屋上絞架式方法を定め、絞首のための絞架を地上に組み立て、受刑者は階段を昇つてその上に至り、そこで執行を受けて落下する方式を規定しているものであるのに対し、現行の方法はいわゆる地下絞架式で絞首のための絞架が地上に用意され、受刑者はそこで執行を受けて地下に落下する方式によつていることは当事者間に争がない。しかし、右太政官布告は死刑の内容としての「絞」についてその執行手続の細目を定めるべく明治六年二月二〇日に公布施行せられたものであつて、ひつきよう死刑の執行方法について執行者の実際に守るべき執行上の準則を定めた命令に過ぎないと解すべきものである。したがつてそれは本来形式的意味での法律をもつて規定すべき事項に関する規定ではないから、右布告が現になお効力を有するか否、現行の方法がそれと異なるか否は、現行の執行方法が違法であるかどうかを決する上には関係がないというべきである。もつとも死刑の執行というような重要な事柄については、たとえその執行の細目であつて、法律に直接規定する必要はないとしても、なお拠るべき明確な規範の存することが合理的であることはいうまでもなく、その点で明治初年にこれを必要とした事情は今日もなお変るところはないというべきである。
しかるに前記明治六年太政官布告六五号が法律としてであれ命令としてであれ今日なお効力を有するかどうかは必ずしも明白ではなく(学界においては右布告にかかる絞罪図式は明治五年監獄則の付属法令たる監獄図式に編入され、明治一四年新監獄則の施行とともに廃止されたとの説がある。手塚豊「明治初期刑法史の研究」二五九頁参照)、仮りになお効力を有するものとしても、それと現行の方法とは完全に同一のものではないこと、右太政官布告を現行のものの如く改めた適法な改正手続のみるべきもののないことは弁論の全趣旨に徴し当事者間に争ないものというべきであつて、よし屋上絞架式と地下絞架式の相違は受刑者が階段を上ると平地を歩むとの差異に過ぎずその基本的な機構ないし用法においては変るところはないとしても、少くとも右太政官布告が規定したところと異なる限度において現在その拠るべき準則を欠いていることは否定し得ない。これは行刑の実質が遂次近代化され、合理化されつつある今日驚くべきことである。多年この方法がとられて怪まれなかつたからとて、事は死刑の執行というきわめて限局された分野の問題であつて、大方の注目するところとならなかつたに止まり、これをもつて一の慣習法が成立しているとみるのは相当でない。現行の方法にして是認さるべき限り、よろしくこれに副うべき明確な準則を定立すべきことの妥当なるは明らかである。しかしそれにもかかわらず右準則を欠く故をもつて、現行の執行方法が法律の定める手続によらないものと断じ得ないことは前記のとおりであつて、この点の原告の主張は失当である。
五、さらに、原告は、現行の方法はいわゆる「縊首」であつて刑法一一条にいう「絞首」ではないから、この点で刑法そのものに反し違法であるという。そこで、先ず主として法医学的見地から「絞首」及び「縊首」の概念及び現行の死刑執行方法が如何なるものなるやをみるに、当裁判所の検証及び鑑定人古畑種基の鑑定の各結果並びに同鑑定人の証言をあわせ考えれば、法医学にいわゆる絞首と縊首はともに首に索条を施し、それを緊縛することによつて人を窒息死に至らしめる点では同一であるけれども、絞首(いわゆる首しめ)にあつてはその緊縛が人の体重以外の力で行われるのに対し、縊首(いわゆる首吊り)にあつては右緊縛が人の体重を利用して行われる点が異なつていること、しかし絞首(による死)も縊首(による死)もともにいわゆる扼死(のどしめ)とともに法医学上「絞頸による窒息死」(絞頸死)の範ちゆうに入ること、そして現行の死刑執行の方法は受刑者の首にこれを一周するような鉄鐶を通して施された絞縄を受刑者の体重とその落下加速度とによつて緊縛して窒息死を来たさしめる方法であつて法医学的には定型的な絞首でも縊首でもないが、少くとも前記「絞頸による窒息死」の範ちゆうに入るものであることなどの事実を認めることができ、他にこれを左右する証拠はない。
右の事実によれば、現在わが国で行われている死刑の執行方法は、これを法医学的な見地からみれば定型的な「絞首」ではないかも知れない。しかし、ひるがえつて考えてみるに、そもそも刑法がその一一条一項で「死刑ハヽヽヽ絞首シテ之ヲ執行ス」といつているその「絞首」とは、法医学にいわゆる「絞首」、とくにその定型的な「絞首」を指しているとみるべきであろうか。答は否である。
ことばとしての「絞首」の意味せんさくはしばらく別とし、これを沿革的にみるに、わが近代刑事法制の先駆たる綱領(明治三年太政官布告第九四四号)において死刑は絞及び斬の二とし(なお別に梟示なるものを設けた)、絞はその首を絞りその命をおわるに止め、なおその体を全くするものと規定し、その獄具図においていわゆる絞柱による機構と方法を具体的に規定し、次いで前記明治六年二月二〇日太政官布告第六五号は右絞柱による機構及び方法を改めていわゆる屋上絞架式の方法を定めたのであるが、この方式が屋上と地下の相違はあれ現行の方式とひとしく絞縄を受刑者の首にほどこし、その体重と落下加速度によつてこれを緊縛することにより窒息死にいたらしめるものであつたことは明らかであつて、この具体的方法の変更にもかかわらず絞の内容たる首を絞つて命をおわらしめる点に変更あるものとはされなかつたのである。しかのみならず改定律例(明治六年太政官布告第二〇六号)は右新律綱領を増補改訂し、これとともにあわせて行われたが、これにおいては前記布告六五号を取り入れ絞柱を廃して絞架に換えることを明らかにしたのであるから、右改定律例においていう「絞」は当然右布告六五号の方式によるそれを意味したものというべきである。さらに旧刑法(明治一三年太政官布告第三六号明治一五年一月一日施行)にいたつて「死刑ハ絞首ス」と規定し、はじめて死刑の方法を「絞首」の一種に限定するにいたり、この伝統はそのまま現行刑法に引きつがれた。このような推移にかんがみるときは現行刑法にいう「絞首」は新律綱領にいう首を絞つて命をおわらしめることに発し、改定律例、旧刑法を通じて伝統的に使用せられた「絞」ないし「絞首」と同義であつて、その意味するところの本旨が絞縄を受刑者の首にほどこしこれを緊縛することによつて窒息死にいたらしめる方法を指すものであることは明らかである。そしてかかるものとしての絞首の概念がことばの通常の意味における絞首の概念にむじゆんするものでないことは多言をまたないところである。法医学は科学としての立場から概念を整理分類し、用語を選択して、「絞首」「縊首」等を区別しそれぞれに独自の内容を規定するにいたつたが、わが刑法が「絞首」の語を用いるについては、もともと直接これとは関係ないのみでなく、しかも右に見た如き刑法にいう「絞首」は法医学上その定型的な絞首でないとしてもなお、その上位概念たる「絞頸死」としては妥当すること前記のとおりである。そして刑法が死刑の執行方法として「絞首」と規定することは、一方においてこれを斬殺、銃殺、電気殺等他の方法から区別される特定の方法を示し、他方において残虐な執行方法(たとえば火あぶり車裂き等)を許さないことを示す意義を有するのであつて、かかる機能をはたすものとしてはそれで十分である。これを要するに刑法一一条一項にいう「絞首」とは、上記監獄法七二条にいう「絞縄」なる字句と相まつて、受刑者の首に縄を施しこれを緊縛することによつて窒息死に至らしめる執行方法をいうものと解することができるのであつて、右緊縛につき受刑者の体重が利用されるか否かは問わないものと解すべきである。そして現行の執行方法が正しくこれにあたることは前認定のとおりであるから結局現行の執行方法をもつて刑法一一条一項に違反するものといえないことは明らかである。
六、以上の次第であつて、原告の本訴請求は理由がないから失当としてこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、執行停止決定の取消につき行政事件訴訟特例法一〇条六項を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 浅沼武 小谷卓男 小中信幸)